未分類

shanti house

 

 

先週末は来週のトークイベントで読ませていただく「生きて!」の詩の朗読リハーサルをしに、主催者さんのサロンへ。

(そのことを少しfacebookで呟いています。)

大好きなシャンティハウスのお仕事に、春になり穴ぐらから出て来たクマのような気持ちです、、笑。

 

去年の夏に、鎌倉シャンティハウスの仕事を中断して、夫の駐在についてタイに来たときに、とても悲しい気持ちと同時に、どこかでホッとするような気持ちもあったように思います。

知らず知らずのうちに感じていた少しの窮屈さから、逃げ出したいような気持ちもあったのかもしれません。

自分で軌道に乗せたことに完璧に責任が持てないことや、うまく回せないことが嫌で、だから楽しいはずの活動も時々息苦しくなることもありました。

 

今思えば、人の目を気にしすぎて、自分のあり方がブレてしまう、ただそれだけだったんですが、自分ではどうしていいかわかりませんでした。

だから、一旦リセットしてみよう、そんな気持ちもあったのです。

そしてシャンティハウスを私がこれからどうしていきたいのか、じっくり感じてみたいとも思っていました。

 

実際にシャンティハウスから離れてみると、私がそこでもらったものの大きさに気付かされるばかりでした。

活動中もそれはずっと感じていましたが、なんというか、手放したことで、その恩恵をよりそのままフィルターを通さずに感じることができました。

私が手渡そうとした愛は、大きな喜びになりもとの何倍にもなって私に返って来ていたことがよくわかりました。

そこには私の意図を超えた世界があったのだと感じたんです。

だとすると、何もコントロールしようとする必要はなかったんだなぁと、ようやく自分のありのままを許せたような気がします。

 

そんな風に感じながら過ごしたタイでの日々の中の一番の気づきは、

「わたしがどんな風であろうとも、このわたしのままで生きること、それがいのちの喜びだということ。」

もうとっくに理解していたはずのこのことでしたが、それが身体中に染み渡るために、離れてみる、力を抜くための時間が必要だったのですね。。

 

何かであろうとすることさえ無意味で、もうありのままのいのちに降参するだけ、、という気持ちになっていったことはこの地での大きな贈り物です。

ありのままでありたい、という、ありのままを求めて動こうとする、ゴールのない永遠の輪。

そこから抜けて見ると、最初から私は、今ここのわたし以外にはどこにも行けないということがはっきりと見えたのでした。

 

 

鎌倉シャンティハウス、来てくれたみんながリラックスしてキラキラしながら笑っている、時に泣いたり嘆いたり、自分を感じて、また丸く笑って、、愛がいっぱいある場所。

それは私にとっての天国で、だから私はそんな場所をつくりたかった。

そしてそれを、みんながつくってくれた。

トークイベントを前に、そんなことを振り返り幸せな気持ちでいっぱいの今日の日です。

写真は食卓を囲むひと時。大好きな人たちが笑っています♡

 

 

 

未分類

心の扉の向こう側

 

心の声、いのちの本音を聴くことをお伝えしている私ですが、

それは、私自身が心の奥の正直な気持ちに直面してしまうことがずっと怖かったからなのです。

私は子供の頃から心の奥にこんな声を押し込めてしました。

「誰にも頼ることができない、自分はひとりぼっちだ、私が一人で頑張らなくてはいけない、、でも寂しい、辛い、怖い、休みたい、頼りたい、助けてほしい、、」

でも、もし自分の気持ちを解き放って、もう自分を我慢させられなくなったら周囲の人に迷惑をかけてしまうと思っていました。

だから、そんな自分の気持ちを正直に感じて認めてあげることができなかったんです。

怖い、助けて、と言えば私は自分を一人で守れなくなるから。

頑張って我慢しなくて、お互いが正直にありのままであっても幸せでいられる、と知らなかったから。

 

言えなかった沢山の言葉が心の奥に残っていると、それを誰かが言うのを聞くのが苦しいものです。

癒してあげられてない気持ちが自分の心の扉をノックしてくるから。

だから、自分の家族や子供に、その言葉を言わせないようにしたり、誰かがその言葉を言うとイライラしたり怒ったりしてしまいます。無意識に。

私が息子に対して、無条件に愛してほしいと甘えてくるときに、無性にイラっとするのはそのせいだったわけです。

自分が言いたくて言いたくて、でも閉じ込めていた言葉だったから。

 

例えば、自分の自由を閉じ込めてきた人は、自由にしている人を見たら、いろんな理由をつけて批判します。

自分の「助けて!もうやめたい!」と言う言葉を閉じ込めてきた人は、人が弱音を吐くとイライラします。

 

もしずっと心の扉を閉ざしたままだと、いつの間にか、その無意識の抵抗感、フラストレーションが、人生を難しくし、やがて自分の信念や信条になってくることさえあります。

〜べきだ!と掲げて生きている人は大抵、扉の向こう側に癒しの必要な気持ちがあるかと、、自分の経験からわかります、笑。

本当はただ自分に優しくするだけでいいのに、楽にはならない違う方向へと進んでいってしまうと大変ですから、

どんな人でも、この心の本音を聴くことはとても大切。

そしてそれさえしてあげれば、私たちは自分自身をくつろがせ楽に生きるようになるのですよね。

今の自分に、いえいつでも、必要なことです。

 

 

***

心の扉を開いて中をみてみる、出てきた言葉を聴いてみること。

すごく昔の言葉でもその時の気持ちは身体のどこかに宿っています。

心のセラピー、身体のセラピーを受けるのもいいです。

いつも言うように、一人で心静かに書いてみるのもいいです。

そんな作業をご一緒にさせてもらうのが、私のワークセッションです。

もしご興味あれば、メニューの「お問い合わせ」から詳細をお問い合わせください。

 

未分類

楽しくなったらどうしよう?!

 

無理しないと、どうなるか・・・?

心の本音に従って生きるとどうなるか・・・?

そんなことしたらどうなっちゃうの?!と思うこともあると思います。

私自身、まだそこに対する潜在的な恐れがあります。

けれど、どうなるか?の答えはもうはっきりわかっていて、ただ楽になる!楽しくなる!わけです、笑。

 

「私自由になっちゃうじゃん、楽しくなったらどうしよう。。」

大人になると、そんなすごい不思議な葛藤がなぜあるのでしょう。

一つには、社会にある規律や秩序、つまり常識を支えているのが、基本「我慢」だからかもしれません。

幼稚園ですでに掲げてあります「我慢のできる子になろう!」と、笑。

でもこれは、一部の国だけなのかも。少なくともタイには全くない文化です、笑。

そこにはきっと「思いやり」も含まれているのですが、なかなか純粋な思いやりを教えることは難しいかもしれませんね。

大人がお互いがまったく平等だという立場に立って、人に対して愛を分かち合う、優しく接することに慣れていないから。

 

というか、立場や役割やルールを重視し過ぎて、忘れてしまったんですね、いつの間にか。

 

 

人と人の違いは「個性」、お互いがそのままでいても楽しい!

 

子供時代には当たり前だった、そんなことを思い出すのに時間が必要なのは、長い長い人の歴史の中の一歩だからかもしれません。

我が家は夫婦でそこを追求した結果、ほとんどそんな感じになってきました、笑。

お互いの個性、特性に従って自然と役割分担し、認め合いインスパイアし合う、無理はしないけど、困った時は助け合う。

これをシャンティハウスで体現し、みんなと共有していくことがライフワークかなと思う今日この頃です。