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思い切りいのちを吸い込んで

 

 

明日は桃の節句ですね。1年ぶりのお雛様との再会に大興奮の娘と一緒に、丁寧にお人形とお道具を出して飾りました。

桃の花を生けると次々に蕾が花開いて、部屋の中に暖かな春の風を運んできてくれたよう。

娘と一緒にそんな風にひな祭りを楽しめる日が来るなんて、今でもなんだか不思議に思うし、人生の巡り合わせ、奇跡に感謝するばかりです。

 

昨日のブログで書いたことの続きを少し。

弱い自分を受け容れることも大切な経験でしたが、そもそも私が弱ってしまった原因について。。

寝たきりだった長男の優大との日々で、私は「そのままで生きていること自体がもう贈り物なのだ」ということを知りました。

だから、私のままで生き生きと思う存分に命を輝かせて生きよう!そう誓ったのでした。

そんな私にとって、あくまでも私にとってですが、駐在妻という立場はとても息苦しいものでした。

〜会社の社員の妻として振る舞う。奥様会のお仕事をする。慣れない海外暮らしの子供達のケアに専念する。妻が仕事をすることは原則的に禁止。

こういう暮らしの中で、私は次第に自分という存在を生きている実感が持てなくなっていきました。

なんとか楽しみを見つけて順応したいと思い、そう表面上はやれても、心の中にエネルギーが湧いてこないのです。

でも、その苦しさを口にすることさえ後ろめたさがつきまとっていました。

だってみんな頑張っているから。それが当たり前だから。恵まれているはずだから。感謝しなくてはいけないから。。

本心以外の言葉が私の心を縛っていることに気付いても、なかなか本音を言い出せませんでした。

「もう帰りたい」という本音を。

そして、すっかり自分を生きることを明け渡してしまった私には、心の声を聞いてあげる力さえなくなっていました。。だから身体が限界になって。。これって私の癖というか、いつものパターンだったのだと思います。

帰国してからも、この本音を書くことも正直、書きにくくて、私は一体何に誰に気を遣って、自分の心の声を封印してきたんだろう。。

私は、それが無理だった、というだけなのに。

人はみな違う。違うからこそこの地球は豊かだと知っているのに。

この7年くらい、懸命に自分を生き始めたら、自分で作っていた制限が一つまた一つ外れていくのを体感しています。

今回の体験は、そうやってまたひとつ、今までの私の制限が外れるタイミングがやってきたということなのです。

 

私が息苦しく感じたのは、自分の心の本音を潜めて押し込めていたから。

呼吸はいのちの源だから、息苦しさは、自分自身の生を脅かすほどの力がある気がします。

思い切り息を吸い込んで吐く時、心と身体がふわっとほどけて力が抜けます。ただここにあることを思い出します。

息を止めて、心が死にそうになってしまうなんてことは、もう二度としたくない。

ずっとずっと息が吸えない感じがしていた子供時代からの私の背中を撫でてあげよう。

どんな生き方をしようとも、どんなに人と違ったことを選ぼうとも、生きていることが素晴らしいから!

生きてるだけでいいじゃない!好きなものは好き!嫌なものは嫌!と叫ぶ今日この頃です、笑。

 

 

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春、感情を風に乗せて

 

春の嵐が去っていき、青空に浮かぶ雲を眺めていたら、なんだかワクワクしてきた朝です。

 

私はずっと心が平穏であることを望んできました。

それは自分の中にネガティブと思えるような感情が湧くことがとても苦手だったから。

怒りは特に嫌いで、人の怒りに触れることですごく気分が悪くなるし迷惑に思うので、自分は怒りを表すことを極力避けてきました。

怒りの感情は悲しみの抑圧からくるといいいます。

悲しい時、寂しい時にそれを表現できる人は、そんなに怒らずにすむと思います。

悲しんでいる人と怒っている人では正反対のように感じますが、実は表裏一体なのです。

それと同じで、「私なんかダメ」と口にする時には、その根底には「私だって!」という気持ちが潜んでいたりします。

感情が生まれる時には、必ず心の深いところでの声なき声があり、それはただ聞いて受け入れてもらえれば満足することが多いのです。

私も、長い間そうやって、心の本音を押し殺してきました。

亡くなった息子との時間がなければ、きっと今もまだ「いい人」のまま、笑顔で懸命に取り繕って生きていたかもしれません。

 

タイで心と身体のバランスを崩してからの私は、実はその辛さを何とか隠して自分の中に納めておきたかったのです。

弱い自分、役に立たない自分、助けてもらわなければいけない自分がいることを、どこかで拒否していました。

今までずっと

「どんな自分もそのままで大丈夫。」

「今の自分が一番豊かで愛の詰まった存在。」

そうお伝えしてきたのに、私は私のことを丸ごと受け容れることができずにいたのです。

心の歪みは、私の身体の限界を超えて、堪えきれずに表に出てしまい、何度も倒れることになりました。

それから、幸いにも、たくさんの手助けをもらうことになりました。

何よりも、弱っている自分でいても、大切な家族や友人が私のことを変わらず大切に思ってくれたことが、とても力になったのです。

笑っていなくても、笑いかけてもらえるし、何も役に立っていなくても会いたいと言ってくれる。

「もっと頑張りなさい、ちゃんとしなさい」と、言ってくる人はもちろん誰もいませんでした。

それは私自身が私の心に言い続けていた言葉でしかありませんでした。

 

感情が動くことは生きている証しです。

同時に、どんな感情もそれは私であり、私でないものを感じることはできません。

そして、湧いては消えていく、この瞬間にしか存在しない風のような雲のようなものなのです。

春の風に乗って流れる雲は、「すべてが生きている」ことを教えてくれます。

私の感情がどこに向かうのか、そして誰と出会い、どう変化していくのか、、

そんなワクワクが今私の胸にあります。

 

いつもありがとうございます。愛を込めて。