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あなたがいてくれて嬉しい

同じ空の下、あなたがいてくれて嬉しい、そう手紙で友達に伝えながら、思いました。

本当に、大切な人や、会ったこともない人であっても、その存在そのものが、私の喜びであり、私にもたらされる愛だなぁ、、と。

私はずっと、一人であったことも、一人で何かをしたこともなかったのですから。

何かを成し遂げることはもちろん、何かを心に感じることでさえ、もしも私がたった一人で生きているならば、できないこと。

 

この世界はいつだって繋がってひとつ。

 

大切な人の大切な人、その人の親や友達、またその人たちの子供や仲間、そのまたご先祖様や先生。。

大地や空や海、吸い込んだ酸素や、陽の光、。。

ある日すれ違った人、電車で目があった人、お財布を拾ってくれた人、遠くで聞こえる子供の泣き声。。

夕暮れ時の匂い、夏の夕立の後の虹、波の音、蝉の声。。

 

どれひとつ、私がそこに置いたものはなくて、そこに完璧に存在していて、私の命を共につくっている。

 

だから、、私はわたしであるだけで、それだけでいいんだなって思うのです。

だから、、あなたがそこにいてくれて、私は本当に嬉しいと思うのです。

 

あなたに心から感謝を込めて。

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癒やし、ありのままの自分に戻る

私は海や空や緑を見ていると癒されます。

そして、目の前の人がくつろいで、ホッとしている顔、涙している顔、夢中になっている顔やそんな様子を見ていると癒されます。

ありのままなものや瞬間に触れると私の心もありのままに戻り、癒されるのだと思います。

あなたはどんな時に癒されますか?

 

「癒される〜」と思うとき、文字通り、自分の中の何かが「癒えた」つまり、本来の自分ではない不自然なところが、「癒えて、元に戻っている」瞬間なのだと思うのです。

よく観察しないと気づかないのですが、「癒される」という感覚は、いつかの心の傷や、緊張からのこわばりや、疲れからの無気力や、悲しみからのイライラや、、、

私たちが何かしら抱えている少し重くて固いようなそんな部分が、緩んで柔らかくなるような、包まれて暖かくなるような、軽くてふわっとなるような、感覚だったりするかもしれません。

 

やはりそれって、身体の痛むところに手を当ててもらったり、温めてあげたり、気持ちよくストレッチした時なんかに感じることと似ている。

身体同様に心にも癒えるという必要があるのだなと思います。

 

そして心を癒すのに、劇薬や荒療治も時には必要なのでしょうが、日々の「ホッと」が何よりもの薬になる気がしています。

まずは自分がホッとするのは、どんな時かな?と思いを巡らせる時間を持つことからですね。

 

大人になると、何かと頑張ることが優先になりますが、癒すこと、労わり優しくすることに、「やりすぎ」はありません。

それが勉強や修行のようになると、癒すことを頑張ることになってしまうので、逆効果ですが、笑。

特別なことをしなくても、毎日心と身体がホッとするように生きること。

大人になるにつれ、実はそれが一番難しいかもしれないのだけど、笑。

特に自分に対しての癒しは、死ぬまで自分自身にしてあげたい、大切なことのように感じます。

ありのままの自分の心に戻ること、それが癒しなのですから。

私もこの頃また、それを意識しながら過ごしています。

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愛されるに値する

 

ここのところ、心も身体も揺れて揺れて、また変化の波がやってきているのを感じながら暮らしています。

重い日と軽い日、交互に訪れているような感じ。

これは多分、今はちょっとじっくり休み休みいく時だから。

無理して動くと重くなり、それに気付いて休むと軽くなるんだと思います、笑。

我ながら。。あはは。

 

それでね、つくづく思ったんです。

私は優大を授かってからのこの17年の間、ただただ楽ちんに暮らすことが本当に難しくなっていたのだなぁと。

それが実際に介護が終わり、6年もかけてやっと緩んできたところなのかもしれないなぁと。

ここのところ、夜に熟睡するようになっていて、いつ以来なのかなぁと思ったり。

自分が無理していることに、とても早く気付くようになったので、早めに調整ができたりもして。

不愉快な気持ちになった時に、自分に我慢させないで、その気持ちを吐露することもできるようにもなったり。

 

自分の半生を通して、頑張って頑張って生きているときは、実は自分を小さく価値のないもののように扱っているのかもしれないなぁと感じます。

頑張ってなくても、誰もが、ゆっくり休むに値する、意見を言うに値する、愛されるに値するのですよね。

 

わたしたちは生きているだけで、他のすべてのいのちと繋がってこうして共にあるのだから、なに一つ不足していることなんてないのだなぁ。。

ベッドに横になって、そんなことをしみじみ感じながら空を見たら、虹がすっと現れました。

あったかくて優しい、空からの贈り物でした。

 

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純粋にやりたいこと

 

 

私は純粋に言葉を綴ることが好きです。

書いていると自然と満ち足りてきます。

例えば一人でいて寂しくなったら、言葉を綴ると気持ちが落ち着くのです。

あなたのそんなことって何ですか?

息子ならYouTube、娘ならおままごと、かな、笑。

暇つぶしではなくて、進んでやりたいことです。

 

やらないといけないこと、は、私たちは簡単に作り出せるけれど、純粋にやりたいことは大人になると減ってきます。

特に責任が重くなったり、忙しくなると、忘れてしまったりもします。

でもね、自分に優しくすることの、大切な部分がこれなんです。

 

何かをするのが思いつかなかったら、一杯の温かいお茶でも、30分のお昼寝でもいいのです。

頑張って、我慢して生きる毎日に、少しだけでもホッとする時間をつくってみてください。

セッションをしていた時には、このアドバイスはいつもしていました。

 

まずは日常の中でのほんの少しでも、自分を労ってあげる。

自分のご機嫌をとってあげること。

 

 

ダラダラしようとも、効率的でなくて何も進んでいないような感じでも、あなたのご機嫌が、周囲までホッとさせること間違いなしです。

私で実証済みですから、笑。

 

そしてもし心落ち着く時間が持てるようになったら、少し思い出してみるといいかもしれません。

あなたの純粋にやりたいこと、好きなこと。

みんながやっているから、とか、評判がよさそうだから、とかではない、何というか一人でやってもムフフってなるようなことです、笑。

だから美味しいチョコレートとか、お気に入りのマンガでも、もちろんいいんです。

忘れていても必ずありますよ♪

 

日々を頑張っている大人のあなたにエールを込めて♡

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自分に優しく

 

ブログをアメブロからこちらに移したのは、まっさらなところで私自身の純粋なエネルギーでまた始めたかったから。

その時に感じている気持ちを、そのままかたちにすることは、今の私にとってはとても大切で自然なことです。

自分自身や周りのエネルギーに敏感な私にとっては、違和感のあるまま「留まり続けること」は大きなストレスになるのです。

それは時間の中でもそう、人との関わりの中でもそう。

 

でも、以前は、そうやってありのままに「変化する」ことで、周りの人に迷惑をかけてしまうのではないか、失うものがあるのではないか、、と怖かったのです。

だからなるべく心を鈍感にさせようとしたり、見ないふりをしたり、我慢できると言い聞かせたりしていました。

今でもたまに、自分の敏感さが重荷に感じて持て余してしまうこともあります。

けれど今は感じています、この繊細さを持って生まれて、自分の命一杯に感じたいことがあったのだろう。。と。

そんな唯一無二の私自身を、私が一番に理解しよう、大切にその声を聞こう、そう思った時から、生きることが楽になってきました。

 

自分以外の誰かの都合や、利便性や、常識や、、そんな「その場にふさわしいとされる役割」を生きることを少しずつやめてみることで、

本当に、随分、自分に優しくなった気がします。

そして、そうやって生きていると、世界は優しいところだと感じるのです。

自分への優しさはそのまま自分の世界に映し出されているのでしょうね。

 

実際に「自分の声をちゃんと聞いて、それを否定しない」ようになった今でも、私は変わらず最愛の家族とともにあり、暖かい人との繋がりに恵まれて生きています。

「自分を優先したら何かを失うかもしれない」という幻想だけが薄れた、ということなのかもしれません。

 

 

感情の起こるままに揺れてもいい、不安になって、怒って、そんな感情を道しるべに、本当に望む方へと変化していけばいいんですよね。

ただ自分を責めるのだけを、やめるだけで、私たちはとても幸せでいられます。

 

私の新しい変化、シャンティハウスのホームページを開いて読んで下さっているあなたに、心から感謝を込めて♡