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人生の探求から幸せの実感へ

 

人はなぜ生まれてきて、生きて、死ぬのでしょう?

このことがわからないままに、生きていると、自分が本当に幸せなのかもよくわからなくなるような気がします。

私たちは、自分自身、いのち、幸せ、その意味を知りたい!と思う潜在的な欲求を持って生まれてくるからこそ、人生を歩み続けているのかもしれません。

だから、大人になるにつれて、答えを必死で探し求めるて回る、または考えないようにして生きようとする、このどちらかになるように思います。

どちらの歩みも同じ方へ進んでいるのですが。

 

そうしてどちらの人生を生きていても、答えを突きつけられるようなタイミングというのが訪れることがあります。

私の場合はなぜか、小さい頃からそれがいつも頭の中にあり、そして22歳で優大という存在に出会い、「いのち」がどういうものかを教えてもらいました。

この世に生まれでて、大脳がなく、寝たきりで話すこともしない、その生を全うするまでの一瞬一瞬を見せることで、教えてくれたのです。「優大とわたしたちの10年間の物語

 

私は長い間、生きるための意味を求めてきました。そして今は、生きることの意味がなくても、幸せで生きていられるということを知りました。

求めてもがくことや葛藤すること、様々な感情が溢れてくること、生きていると感じられること、その今という瞬間にすべてがあるのです。

そう、なぜ生きるのか?の答えは、この一瞬一瞬にしかない。

息を吸って吐いて、目を開いて見て、聞いて、、

それが紛れもなく生きているということだから、吸う息が、見るものが、聞く音が、人生といえます。

 

私には身体があります。話すことも歩くこともできる。

今、何を見て生きたい?何を聞いて生きたい?

どんな道を歩いて誰に会いたい?

どんな気持ちを伝えたい?

どんな言葉で話したい?

 

それを知り、選び、生きるために、感じる心があり、目や口や五感があり、そして、いのちがあります。

どうしたいか?どう生きたいか?はわたしたちの幸せの原点です。

これがなくなってしまうから、生きることの意味を探さなくてはいけなくなるだけなんです。

社会の役に立っていなかった優大の、その存在そのものが輝いていました。多くの人に勇気や愛を運んで人生を全うして生ききった姿でした。

本来、生きているだけで、100点満点の私たち。

心底幸せであると感じられたなら、もう何も求めるものはないと思うんです。

 

だから、生きることに大義名分はいらないし、自分を誤魔化し、理由を作り、納得させ、本当はどう生きたいのか?もわからないままに死を迎えるのは嫌だと思っています。

優大の分まで生きようとか、大切ないのちだから生きようとか、そういうことでもなくて、

この今ここにあるいのちは、私たち一人一人のための贈り物だと心底感じるから。

世界でたったひとつの、私の人生というギフトを贈るのも受け取るのも自分自身。

自分の好きなように生きていい。私たちはそのために生まれてきたから。

 

今日も、あなたを生きてくれて、ありがとうございます。

愛を込めて。

 

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自分の花を咲かせて生きる

 

自分の心に正直であること。心のままに生きること。

優大に出会う前から、きっと生まれてきてからずっと、私はそういう生き方に憧れてきたのだなぁと最近思います。

 

私は物心ついた時から、人はなぜ生まれてくるの?周りからよく思われるように生きることに本当に意味があるの?とかなり強く思い悩むことが多かったのです。

ある時、兎の眼という小説を読み返していて、「美しい」というのはは、どんな生き方をするかではなくて、人の本当の心にあるのでは?とハッとした時のことはとても鮮明に覚えています。高校1年生の時でした。

私の人生は、ただそこに向かって導かれているのかもしれません。

子供の頃から、嘘にとても敏感で、それは嘘をつこうと思っていなくても、取り繕っている人を見るだけでとても嫌な気持ちになりました。

反対に、自分に素直に生きている人を見ると気分が上がります、笑。

変わっている人でも、わがままな人でも、そのままでそこにあってくれるだけで私はほっとします。

テレビもドキュメンタリーやトーク番組が好きなのは、物語や人物の本当のところに触れることができるから。

いい人、万能な人、角のない人、正しい人、ちゃんとしている人、明るい人、を無理して演じるのは疲れます。

でも、それがいつしか「自分らしさ」のような設定になってしまうので、疲れているのにやめられないからイライラするし、元気がなくなるし、終いには何のために生きているのかわからなくなってしまうのです。

いい人なところも、明るいところもあるし、ネガティブなところも、ダメダメなところもあるのが人間ですから。

 

カウンセリングやシャンティハウスの仕事をしていると、人の本当のところに触れさせてもらうことが多い。

だから、私はこの仕事が好きなのだと思います。

誰の心も、開いているときはいつだってとても美しい。

葛藤や、悲しみや、怒りでさえも、どんな感情も、表現した時にキラキラと光って消えていきます。

どの赤ちゃんも輝いているように、無垢の心、いのち、はそのままで宝物です。

だからなおさら、心からの笑顔、溢れてくるあたたかい涙、心が開いているときの輝きは眩しくて、人の、そして自分のそういう瞬間に触れる時には、私は生きていることに感謝したくなります。

いつでも心の中にいのちの本音の花を開かせていたい。

それは誰に見せるためでもなく、誰かと競う必要もなく、自分のためにだけ咲く花。

ありのままは、自分の花を咲かせて生きているということ。

そしてもしお互いに、「私の花はこういう花です。」と見せあうことができるときは、私たちは一番幸せなのかもしれません。

今の私は、子どもたちとの時間の中に感じています。

あなたはどんな時に感じますか?

 

自然も人も春の前のふわふわとした浮き沈み、あるがままに。

愛を込めて。

 

 

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シャンティハウスという夢

 

春の嵐から一夜明けて、また寒さの戻った湘南です。コートを脱いで身も心も軽く歩く日が待ち遠しいです、笑。

昨日は不動産の内見に出かける用事があったのだけど、週末に埋まってしまったとのことでキャンセルになって、嵐の中を出かけずに済んだのでよかったです。

今、シャンティハウスの仕事用のオフィスを探しています。

2014年のシャンティハウスの立ち上げは、いつかそんなことをやれたら。。という夢を描いて、そのために人が集まれるように設計して建てた自宅で始めることができました。

タイへの駐在をきっかけにその自宅を売却することになり、帰国後の今は賃貸のお家に住んでいます。

シャンティハウスを一生の仕事にしていくことを決めているので、今年は本格的な事業の立ち上げの年にするつもりです。

今の自宅は事務所利用は不可なので、仕事用の部屋を探しているんですが、まだ目ぼしいところが見つかっていません。

帰国後に早速セッションのご依頼もいくつかいただいているので、早く見つけたいなぁと思っているのですが。

 

Shanti House という大きなコミュニティーを創ることが今の夢の一つです。

誰もがそのままでホッとくつろげる。自分のいのちの本音で生きられる。ありのまま、一人一人が違う、色とりどりの美しい輝きを放てるように。

セッションやワークショプに限らず、色々な仲間とつながりながら、いのちの輝くことをやっていきたい。

子育て支援やレスパイトやターミナルケアのこと、生まれてから死ぬまで、そして見えないいのちが続いていくところまで、やってみたいことは沢山あります。

一つ一つの輝いているいのちのそばにいたい、それが私の願いです。

立ち上げから変わらない「かけがえのないあなたと」というHPのテーマにもしている言葉にも、そんな願いが込められています。

 

私にとっては、「場所、空間」がとても大切なのだなぁと、シャンティハウスのある場所を一旦離れてみてよくわかりました。

エネルギーが整う、調律のような役割をしてくれる空間を創りたい。考えているだけでワクワクしてくるんです。

安心したい時、元気が欲しい時、休みたい時、一歩踏み出したい時、思い切り輝きたい時、本来の自分にパワーを戻せるようなそんな場所にしたい。

宇宙から大自然からのパワーをもらいたいから、やはり大きな空や海や山とつながっている場所がいい。世界中から集えるような場所になればいい。

 

こうして書いているだけで、元気になってきました、笑。

夢を語ると、見る方向が定まります。見る方向に進んでいくと道ができます。

「光の差す方へ」優大が亡くなって最初につけたブログのタイトルです。今もその道が続いています。

今日も読んでくださり、ありがとうございます。

愛を込めて。

 

 

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思い切りいのちを吸い込んで

 

 

明日は桃の節句ですね。1年ぶりのお雛様との再会に大興奮の娘と一緒に、丁寧にお人形とお道具を出して飾りました。

桃の花を生けると次々に蕾が花開いて、部屋の中に暖かな春の風を運んできてくれたよう。

娘と一緒にそんな風にひな祭りを楽しめる日が来るなんて、今でもなんだか不思議に思うし、人生の巡り合わせ、奇跡に感謝するばかりです。

 

昨日のブログで書いたことの続きを少し。

弱い自分を受け容れることも大切な経験でしたが、そもそも私が弱ってしまった原因について。。

寝たきりだった長男の優大との日々で、私は「そのままで生きていること自体がもう贈り物なのだ」ということを知りました。

だから、私のままで生き生きと思う存分に命を輝かせて生きよう!そう誓ったのでした。

そんな私にとって、あくまでも私にとってですが、駐在妻という立場はとても息苦しいものでした。

〜会社の社員の妻として振る舞う。奥様会のお仕事をする。慣れない海外暮らしの子供達のケアに専念する。妻が仕事をすることは原則的に禁止。

こういう暮らしの中で、私は次第に自分という存在を生きている実感が持てなくなっていきました。

なんとか楽しみを見つけて順応したいと思い、そう表面上はやれても、心の中にエネルギーが湧いてこないのです。

でも、その苦しさを口にすることさえ後ろめたさがつきまとっていました。

だってみんな頑張っているから。それが当たり前だから。恵まれているはずだから。感謝しなくてはいけないから。。

本心以外の言葉が私の心を縛っていることに気付いても、なかなか本音を言い出せませんでした。

「もう帰りたい」という本音を。

そして、すっかり自分を生きることを明け渡してしまった私には、心の声を聞いてあげる力さえなくなっていました。。だから身体が限界になって。。これって私の癖というか、いつものパターンだったのだと思います。

帰国してからも、この本音を書くことも正直、書きにくくて、私は一体何に誰に気を遣って、自分の心の声を封印してきたんだろう。。

私は、それが無理だった、というだけなのに。

人はみな違う。違うからこそこの地球は豊かだと知っているのに。

この7年くらい、懸命に自分を生き始めたら、自分で作っていた制限が一つまた一つ外れていくのを体感しています。

今回の体験は、そうやってまたひとつ、今までの私の制限が外れるタイミングがやってきたということなのです。

 

私が息苦しく感じたのは、自分の心の本音を潜めて押し込めていたから。

呼吸はいのちの源だから、息苦しさは、自分自身の生を脅かすほどの力がある気がします。

思い切り息を吸い込んで吐く時、心と身体がふわっとほどけて力が抜けます。ただここにあることを思い出します。

息を止めて、心が死にそうになってしまうなんてことは、もう二度としたくない。

ずっとずっと息が吸えない感じがしていた子供時代からの私の背中を撫でてあげよう。

どんな生き方をしようとも、どんなに人と違ったことを選ぼうとも、生きていることが素晴らしいから!

生きてるだけでいいじゃない!好きなものは好き!嫌なものは嫌!と叫ぶ今日この頃です、笑。

 

 

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春、感情を風に乗せて

 

春の嵐が去っていき、青空に浮かぶ雲を眺めていたら、なんだかワクワクしてきた朝です。

 

私はずっと心が平穏であることを望んできました。

それは自分の中にネガティブと思えるような感情が湧くことがとても苦手だったから。

怒りは特に嫌いで、人の怒りに触れることですごく気分が悪くなるし迷惑に思うので、自分は怒りを表すことを極力避けてきました。

怒りの感情は悲しみの抑圧からくるといいいます。

悲しい時、寂しい時にそれを表現できる人は、そんなに怒らずにすむと思います。

悲しんでいる人と怒っている人では正反対のように感じますが、実は表裏一体なのです。

それと同じで、「私なんかダメ」と口にする時には、その根底には「私だって!」という気持ちが潜んでいたりします。

感情が生まれる時には、必ず心の深いところでの声なき声があり、それはただ聞いて受け入れてもらえれば満足することが多いのです。

私も、長い間そうやって、心の本音を押し殺してきました。

亡くなった息子との時間がなければ、きっと今もまだ「いい人」のまま、笑顔で懸命に取り繕って生きていたかもしれません。

 

タイで心と身体のバランスを崩してからの私は、実はその辛さを何とか隠して自分の中に納めておきたかったのです。

弱い自分、役に立たない自分、助けてもらわなければいけない自分がいることを、どこかで拒否していました。

今までずっと

「どんな自分もそのままで大丈夫。」

「今の自分が一番豊かで愛の詰まった存在。」

そうお伝えしてきたのに、私は私のことを丸ごと受け容れることができずにいたのです。

心の歪みは、私の身体の限界を超えて、堪えきれずに表に出てしまい、何度も倒れることになりました。

それから、幸いにも、たくさんの手助けをもらうことになりました。

何よりも、弱っている自分でいても、大切な家族や友人が私のことを変わらず大切に思ってくれたことが、とても力になったのです。

笑っていなくても、笑いかけてもらえるし、何も役に立っていなくても会いたいと言ってくれる。

「もっと頑張りなさい、ちゃんとしなさい」と、言ってくる人はもちろん誰もいませんでした。

それは私自身が私の心に言い続けていた言葉でしかありませんでした。

 

感情が動くことは生きている証しです。

同時に、どんな感情もそれは私であり、私でないものを感じることはできません。

そして、湧いては消えていく、この瞬間にしか存在しない風のような雲のようなものなのです。

春の風に乗って流れる雲は、「すべてが生きている」ことを教えてくれます。

私の感情がどこに向かうのか、そして誰と出会い、どう変化していくのか、、

そんなワクワクが今私の胸にあります。

 

いつもありがとうございます。愛を込めて。