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決めて選ぶその先に

帰りたくて仕方なかった日本、大好きな場所、湘南。

実際に帰ってきて、夫がタイにいる中で色々な大変さもありますが、基本的には幸せいっぱい、笑。

本当にマイペースに過ごしている毎日。

リハビリのような日々も、空を見るだけで、絡まってしまった気持ちや、しぼんでいた心がふわっとほどけていく。

澄んだ空に描かれた美しい雲の形

雲間に見えた虹彩のきらめき

暮れていくオレンジの空に浮かび上がる富士山のシルエット

そんな光景を見ては、子どもに、「ほら見て、きれいだね〜」と言える時間は本当に心があったかくなります。

 

 

家族揃って暮らすという、大前提を崩してでも、「自分の心に正直に」生きる選択をする。

それはとても勇気のいることだったけれど、いつも私には選択肢というものはあまり存在していません。

選択肢はあるように思えて実は最初から答えは一つ。

それは人生に選択の余地がないということではなくて、今この瞬間に選べることは一つしかないということで。

もし選択肢があるような気がして迷う時も、後で後悔する時も、その選んでいくことのプロセスの一部なのですよね。

 

自分とこの世界を信じて委ねた時に人は選んでいきます。

そして、自分が選んだ、ということ自体がもたらす恩恵はとても大きいように思います。

自分で決めて選んだ一つ一つの出来事に揺れ動く感情、抗い、もがき、迷い、喜び、感動し、幸せを感じ生きているからこそ、わかることがあります。

その経験のすべてが、自分が自分の生きる世界の主人公であることに気づかせてくれます。

もちろん、一つの決断をするときも、した後も、迷いや不安の中を進むことになります。

実際に今までも、私が自分で選んで生きるところには逆境はつきものでした。

それでも思い切って自ら選ぶことをしないでいると、自分の一番大切な今という瞬間がスルスルと指の間を通り抜けて過ぎ去っていくような気もします。

そうさせられた、そうせざるを得ない、という気持ちは私たちの心から元気を奪ってしまうから。

 

この2年間ほどの、正直な気持ちととことん向き合って許してきた時間が、また私を変えてくれました。

心がいつも穏やかであることをずっと望んできた私が、今は本気で生きるのが一番だと思っていて、自分でもびっくりです、笑。

今は、自分の中の自分自身以外のものを削ぎ落として、純粋な自分で生きる本気を養っているような時間かもしれません。

また何かが始まって行く春なのだろうなぁ、笑。

 

今日も空を見上げると、心に映る景色が自分に還る力をくれます。

あなたの心もふわっとほどける瞬間が訪れますように。

愛を込めて。

 

 

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帰ってきました

ブログを読んでくださるみなさま、こんにちは。お久し振りです。

去年末の帰国から、長崎での静養の時間を経て、また湘南に戻ってきました。

 

向こうとこちらでの引っ越し作業、子供たちの学校のこと、各種の手続き、一つずつ何とか終えながら、今日こうしてやっとブログでご挨拶できるまで、長い道のりだったと感じます。

正直、体調が安定しない中で動くことが本当に大変で、その日にできることをただ何とかこなすだけ。

タイでは心身ともに、時には起きる上がるのもやっとなくらいに弱っていたから、帰国してもやはり辛さがしばらく続きました。

子供が生まれてから、そんな風になったのは初めてだったのだと思います。

でも、家族を始め私の周りいてくれたみんながいつもとても優しくて、暖かい言葉をたくさんかけてくれて、子供たちのことも面倒を見てくれたり、感謝感謝の日々でした。

頑張ってきて、頑張れなくなって、今までの私よりもずっと素直に弱音を吐いたり、心が波立ち不安や不機嫌になったり、何もできないことに抗わないことが、私の大切な歩みだったのかなと思います。

 

いつでも必要な出来事がパーフェクトなタイミングで訪れている。

今は言葉で上手く整理もできないのだけど、感じていることが全てだと思うから。。

 

今週から娘の保育園が本格的にスタートしました。

息子も小学校生活最後の日々、元の学校にすこぶる元気に楽しく通っています、笑。

私はシャンティハウスの仕事をゆるゆる再開していきます。

しばらくは体調と相談しながら、心の声をよくよく聴いて。

今こうしてPCに向かうダイニングからは、目の前に大好きな江ノ島、遠くに美しい冬の富士山と青い青い空が望めます。

帰ってきたんだなぁと、やっとやっと幸せを噛みしめる今日の日です。

 

 

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大丈夫じゃなくても大丈夫

来週に迫った帰国。

一つずつお別れの場を終えながら、引越しの準備を始めています。

タイでの日々は1年と半年だったのに、本当に色々な思いをめぐらせた時間でした。

いかに自分に素直に、心の本音を聞いて生きるかを、ひたすらレッスンしていたような気がします。

でもまさかこんなに早く帰国することになるとは、我ながら自分の人生がちっとも平担には進まないことに驚きます、笑。

でも、それならば来なきゃよかったか?と言うと全くそんなことはなくて。

今回の人生の旅路でも大切な体験と気づき、そしてたくさんの暖かい出会いというギフトをしっかりと受け取りました。

シャンティハウスの活動を始めてから、私は自分の人生について語ることに躊躇がなくなると同時に、心の中の思いを素直に深く語り合える何人もの大切な友人に恵まれてきました。

それはここバンコクでも同じでした。必然に導かれて出会った大切な人たち。

優大が亡くなった後には、抱えている苦しさや人生への切実な願い、そんな湧き上がってくる本心を言いたくても言えないもどかしい時期も長くあったことを懐かしく思い出します。

バンコクに来てからシャンティハウスの仕事をしていなかったからこそ、より明確に確かめられたこともありました。

私の生きて行く情熱はいつでも他の何でもない「いのち」から湧き上がり、そのいのちに寄り添い、愛で生きること。

自分という何より尊いいのちと向き合いそのいのちいっぱいに輝いて生きる人たちの力になりたい、という願い。

それは自分自身についての願いでもあります。

その他のことは、もうどうでもいいんだなぁと、笑。ほんとにもう手放してしまおうと。。手放すしかない。。と、苦笑。

見栄も体裁も役割も責任も誰かが決める優劣や善悪でさえ、いのちの本音より大切なことは何もないから。

一人一人が「わたしといういのち」を生きることは何より美しい。

子どもの頃から漠然とそう感じて来たことの意味を知るために、私の人生は進んで来たのでしょう。

 

体力も落ちてよろよろと生きている私ですが、、今のこの私だからできる体験を味わい尽くして、またどんどんと変化し続けて今に生きるだけ。

私はいつも「大丈夫」という言葉に支えられて来ました。

「大丈夫」は、「大丈夫じゃなくても大丈夫」という「いのちへのたゆまぬ信頼」からしか生まれない言葉なのです。

弱った時、この言葉は遠くにあるように感じますが、またその感覚が戻って来てくれると「大丈夫」はさらに力強く優しくすべてを肯定してくれました。

どんな時も忘れないでいたい大切な言葉です。

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味わい尽くす

 

いのちの声を聴いて

心と体が喜ぶように生きること

 

それは、

 

何度でも何度でも何度でも

感じて味わって

味わい尽くすということ。

 

堂々巡りなんて起こりえないから。

今の私で感じることは二度と

訪れはしないから。

 

そうやって生きていることが

もうすべての答えだと、

 

理解を超えて、

心と体で味わい尽くすだけ。

 

愛じゃないものなんて

どこにもないから

いのちの現れそのものが

愛だから。

 

大丈夫、

大丈夫。

 

苦しむこと、悩むことそれ自体が

豊かなことだと気づく時

世界は色を取り戻して

感謝が溢れてくる。

 

だから、大丈夫。

 

安心して苦しんで悩んで

そしていつか安心して安心する。

 

愛の中でしか生きることが

できない私たちだから。

 

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内観の記録

 

なかなか言葉にならない日々。でもぼちぼ〜ち生きています、笑。

今日は自分のための内観の記録です。

 

内側の色々な気持ちと向き合い、体調の波と向き合い、自分に優しくすること、寄り添い続けることがこんなにも難しいなんて、びっくりしてしまいます。

人に優しくする方がずっとずっと楽で、人を愛する方がずっとずっと実感があり、自分は透明であったらどんなにか楽なのに、、といつもの逃避癖が出てくるのでした、苦笑。

 

でも、もうそれを私の心と体は許してくれません。

自分の中の不調和、自分のありのままを生きないことを許してはくれないみたい。

そこからもう逃げないでと、メッセージを送ってくれています。

一回死んだつもりで生き直す、そんな気さえするのです。

 

怒り、恐怖、悲しみ、この感情をそのまま表すことができなかった子供時代。

親を傷つけたり心配させることをしてはいけない。

だから、我慢。2歳でも我慢。わがまま(本音)を言って泣くとかしたことがない。

次第にネガティブなことを感じてしまう自分自身を責めるようになります。

するとネガティブな気持ちは表現できないので、感じると辛くなる、だからだんだん感じること自体を鈍らせるんです。

怒りを感じないようにそのセンサーを鈍らせる。

このメカニズムってもしかして多くの精神疾患や自律神経失調症の方に多いのではないかな。。

 

それでも私は憎しみではなく愛で生きたかった。だからいつも自分の心の器を必死で広げて全部包み込んでしまおうとしてきました。

でも今思えば、私の器の大きさは最初から同じだったんです。

広げることなんてできないと知らなかった。

仮想の自分、つまり理想の自分を作りたかったけど、私にもすべての感情を表現することは当然必要だったわけです。

目に見えない器から溢れてしまった感情は、代わりに身体の不調になって溢れ現れてくれていたのですね。

 

後になって、あの時辛かった苦しかったと喚いても、ちっとも辛さは癒えませんでした。

誰かを責めても、安心することはないから、楽になんてならないんですよね。

そしていつしか私は自分を癒すことを諦めて生きていたのかもしれません。

愛に生きたいともがきながら、それはそのままであることだと知った後でさえ、ありのままに生きることをまっすぐ選ぶことができていませんでした。

 

愛はありのままをそっくりそのまま認め許しているということ。

苦しんだ末に、人生の全てから教えてもらったことです。

何より、いてくれるだけで愛そのものであった優大が、そのいのちのすべてを以て教え続けてくれました。

だから、もう逃げないで、と優大も言っていると感じます。

 

自分のいのちに寄り添い、いのちの本音を生きることは、それ以外の全部を手放すことかもしれません。

まるで運転中のハンドルから手を離すような、大事に抱えた宝箱から手を離すような。。

だから怖いし、逃げたいし、そこまで追求する必要ないと思うし、早く楽になりたい。

でももう私はその道を、、いえ、最初からその道を歩いている。

誰もがそうであるように、自分しか歩けないこの道を歩いている。。。

そしてきっと、手放すのは、何かをなくすことじゃなくて、握った手のひらを開いたら、そこには何もないってことを知ることなんだと思います。

握りしめようとしているものではなくて、握っている手、このいのちそのものより大切なものはないのだと。

 

しんどいなぁと思いながら生きる今も、愛はいつもここにあり、私はどんな時も愛でしかない。

波間に訪れる平安に宿る最高の愛おしさも感じる毎日です。

いつもありがとう。愛しています。