未分類

wonderful world

shanti houseの活動を始めた時に、「ありのまま」というキーワードがとても大切に感じていた。

ありのままの自分でいてもいい、いられる場所をつくりたい。そして地球全体がそんな場所になったら。。という願い。

 

あれから5年、私の中の深いところで、学びや気づきが継続的に起こってきた。

ありのままで輝くために、どうしたらいいか?何が助けになるか?と考えていた私は、しだいに「今のままがありのまま」だ、というとてもシンプルな真実を心底受け入れるようになった。

 

ありのままでいられない、なんてことは起こらない。

ただ、自分を愛せなくて苦しんでいる時、認められたくてもがいている時、そんなありのままの自分自身を「受け入れる」ことが難しいだけ。

 

本当は、いつでもどんな時も、いのちの輝きは消えることがなくて、その人の価値も決してなくなることもない。

ありのまま、生きてることが、最高に尊い。

 

だから、今の自分以外の何にもならなくていい、どこにも行かなくていい。

そして同時に、もし行きたいところがあればどこへでも行けばいい。

やりたいことがあれば何でもやればいい。

 

自分というwonderfulな世界の真ん中で、人生という旅をしている私たち。

愛すべきこの世界!

愛おしいいのちたち!

 

幸せだなぁと今日もしみじみ思う〜笑。

 

 

未分類

生きてるだけで満点

ふとね、思ったんです。

人生を減点方式で評価していれば、満点になんてなるはずないなって。

 

だって欲とか理想って誰にでもあるものだし、満足したら終わりだ!っていう思想は日本ではポピュラーだしね。

高みを目指して努力する、とまではいかなくても、いまより良いものを目指すこと、自分の価値をあげるために頑張ることが普通なんだよね。

 

だから、足りないところを探す。

何を足したら良くなるか?習慣や技術や能力や信念、とにかく足す必要のあるものを探す。

 

だから自然と、いつも自分は不完全だし、満点になんてなることがない。

 

では、加点方式ならどう?

いまここにこうして生きていることは、100点満点中何点?

共に話して笑い合える人がいることは何点?

空がきれいだなって心がふんわりすることは何点?

 

その瞬間の満点が、人生には散りばめられているんだよね。

 

思考がいまじゃないどこかに逃げ出してしまう時には、私たちは本当に不完全な存在に感じるかもしれないけれど。

あの時の私は不幸だったとか、未来の私には不安しかないとか、いろいろ頭の中はうるさいかもしれないけれど。

 

減点方式はお休みして

「今日も一日生きて、満点です。」

そう、自分に言ってみる。

理想の自分には程遠くても、生きてることがもう100点なんだから。

 

すべての存在に愛を込めて。

 

未分類

わたしは最高

 

誰かの演じている物語の脇役じゃなくて

私たちはみんな自分の描いた物語の主人公を生きている。

 

自分が自分の人生の主人公だと理解してから

もう何年の月日をかけて、私自身に向き合い続けてきたかな、と思う。

 

そして、それ以外生きられないくらいの心身の不調が訪れてからは、とにかく苦しかったけれど、

どこかでこの苦しさから完全に抜けることの、恐怖もあったんだと思う。

だって元気になっちゃったら、私また我慢しちゃうんじゃない?自分の心をごまかして笑ってしまうんじゃない?

そんなこと、どこかで感じていた。

 

 

「わたしはわたし。わたしは最高。」

 

そういう風にマインドセットされたまま大人になる人は少ない。

うちの夫がその少数例だけど、笑。

 

私の場合はその全く逆で

 

生きることはこんなに不安で苦しいのに、私はなんで生まれてきたの?

 

この疑問の答えを探す日々の中、宇宙の真理に触れたり、自分の使命に気付いたり、喜びに溢れるために生まれてくることを思い出したりした。

気付きが深まり、世界はどんどんシンプルになった。

 

それでも、、何かが足りない、何かを変えなくてはいけない、そんな思いが残っていた。

 

 

私のように、自我が十分に育つ前のとても若いうちから自己探求が始まる場合、

「自分が何者かを理解すること」を終えても、自分でいればいいだけ、と真から思うまでにはやっぱり必要な道があるんだろうなって。

 

染み付いてしまった、思考の癖や、行動のパターンや、トラウマや、いろんなことを癒してあげる時間は誰にも必要だ。

だって、人間だから。心と身体を持って生きているから。

 

今思うんだ。

「わたしはわたしでいい」と、思い出すために生きてきた人生劇場の第一幕が下りた。

そして次の幕があがるまでのお稽古期間みたいなものに入ったんだなって。

もしかして、同じような道を辿っている人がこれを読んでくれているのかもしれない。

だからわたしとあなたに言うね。

 

生きているのが辛いと思ったら、自分をぎゅっと抱きしめて。

「あなたじゃなきゃダメだったんだ。」

って言ってあげよう。

「私の望んだ人生を生きるために最高のあなたを選んだんだよ!」って。

 

「わたしはわたし。わたしは最高。」

 

いつだって、本当は一人じゃないから。

この人生で出会えるすべての人たちが、あなたの物語に参加してくれてる最高の仲間なんだよね。

 

難しい役を選んじゃったわたしとあなた、笑。

ビバ人生劇場!

 

溢れる愛を込めて

 

 

 

未分類

約束

 

 

あなたが生まれた日がまた巡ってきたね。

命がすぐに尽きると言われて、それでもどうしてもあなたに会いたかった。

私にとってあなたをこの腕に抱けること、乳をやり、オムツを替え、眠りにつくまで優しく揺すって抱き続けること、そんなすべてが、幸福そのものだった。

あなたのために何かができることが、嬉しくて、、

母にならせてもらって、母でいさせてもらった10年間、私はずっと「あなたを愛する」という最高の幸せをもらい続けた。

それが、何にもかえがたいギフトだったと、今すごく感じているよ。

あなたに触れることができない、何もしてあげることができない毎日を生きることは、本当に苦しくて寂しくて、、

でも、あなたが肉体から離れることを決めて旅だったとき、私はそれがあなたと私の約束だったと知った。

だから、あなたを引き止める気持ちには蓋をして、もらったバトンを握りしめて、あなたがいない世界を懸命に生きてきた。

あなたと出会った日から19年の時が過ぎ、あなたの姿が見えない日々にも、私はずっとあなたからのギフトを受け取り続けている。

そして今日、19回目の誕生日に、また新しい贈り物をもらったよ。

あなたと共に生きている、一人で頑張って戦わなくてもいい、どんな自分も許して、喜びに溢れて生きていい。

あなたに注いだ分の愛を向ける他の何かを探さなくていい、その愛をまず自分に向けよう。

私のいのちの中にあなたがいるから。

あなたと私の約束。

生まれてきてくれて、出会ってくれて、ありがとう。

今日も、ありがとう。ありがとう。

未分類

やめてみる、休んでみる

 

 

昨晩の凄まじい雷雨から晴天の今日も、まだ強い風が吹き付けている鎌倉。

デッキに出て、空を眺めていると、風の強さ、雲の動き、空の色、毎舜変わり続けるその様子に心奪われる。

遠くに見える海の表情、寄せる波も、刻々と変わり続ける。

 

人もまた同じなんだといつも感じる。

 

変わらないのは、空が空であるってこと、私が私であるってことだけ。

 

そう考えるとさ、私たちが毎日続けていることや、もうずっと続けていることがあるとしたら、それはいつかどこかで無理したり違和感がでたりしているのが当たり前なんだろうなって。

 

だってこんなにも私たち自身が変わり続けているのに、同じことを同じようになんてやり続けられるわけがない。

 

でもそれが、8割がたは無理なくやっていることだとしたら、残りの2割をやめようとはなかなか思わなかったりする。

そんで、決めたことを続けないことが罪悪だという意識がある場合には、もし8割がたが無理してやっていても、最初の意気込みのまま続けてしまうことだってある。

 

つまりさ、私たち人間は頭脳があるばっかりに、自分が何をしたくて何をしたくないか、を本能として感じる力が弱まってしまうことがあるのかもしれない。

その結果、何が喜びで何が苦痛かも、わからなくなり、自分が何を無理しているのかにも気付けない。

 

だから、もし疲れて気力が湧かないとか、生きてても楽しくないとか、何だかんだ前のようには色々うまく行かなくったなぁとか、そんな時には、たまに、何かをやめてみる、休んでみること、って大切なような気がする。

それができなくて、強制終了になりがちな私としては、身に沁みてそう感じている。

 

私の場合は、長男の優大が亡くなってから、自分と真剣に向き合うようになって、時々、いろんなことをやめてみている。

 

例えば、洗い物を残さず、シンクを磨いてからでないと寝れなかったのだけど、一回でもそれをやめてみると、自分の完璧主義は誰のためだったの?という疑問とともに、疲れているときには無理してやらないことを選べるようになった。

上の二人では必ず行ってたけど、体調悪い中でも無理して末っ子の授業参観に行くことをやめてみたら、思ったよりも娘からのブーイングは少なかった、笑、とかもある。

この辺りは、自分が良き妻、良き母であるための変なプライドから自分を解放することで、随分楽になったことかな。

 

他にも人が大好きなのになぜか疲れてしまうことが多くなってたとき、人と会うってこともお休みしてみたら、自分が自分でいられないことがただ疲れる原因だって気付いたり。

大切な生涯の仕事であるシャンティハウスをやめてみて、わかったことも沢山あった。

 

やめてみると、本当は何がしたくて、何がしたくなく、そして、どうしてしたいのか、わかってくることがある。

反対に、わからなくなったままに、違和感があることを続けていると、そのつけは意外なほど大きくなって帰ってくる気がする。

不調や、病気や、アクシデントや、いろんな形で、わかりやすいサインとなって帰ってくる。

それあなたの仕事じゃありませんよ!その生き方あなたに向いてませんよ!そのまま行くと死にますよ!みたいな感じで、わからせてくれる。ご親切にも、笑。

 

人生は修行じゃないんだ。

私たちはみんな、この人生を楽しむために生まれてきている。

だからと言って、楽なことだけが起こるなんてことはまあないわけで、耐えてるうちに、修行なんじゃないかって錯覚してきたりもするしね。

だから、一旦やめてみるのが役に立つ。

 

そしてもし、やめようとしてないのに、何かを中断しなくちゃいけなくなったり、休むことを強制されるような状況になった場合には、それはとてもわかりやすいサインだって気付けばいいだけ。

私はどうしてこれをやっているんだっけ?私の喜びってなんだっけ?私はどう生きたいんだ?

って自分と真剣に向き合う時がきたサイン。

ある意味、次のステージに上がる時の準備みたいなこと。

 

うまく行かない渦中にいる時には、もう本当に苦しいんだけど、ほんの5分でもいいから空を見上げて、ちょっとだけ力を抜いて深呼吸するのもまた、「やめてみる」ことの一つ。

そして自分に聞いてあげよう。

本当はどう生きたい?私が人生の主人公だよ、と。

だんだん、思い出してくるから、焦らず、一歩一歩。