未分類

オペレーションを止める

 

 

 

夫が不在な時には当然私一人で家と子供のことをこなすわけですが、最近はそれをワンオペ育児とか言いますよね。

元々はコンビニなんかを一人で営業していることを言うらしい。

そう考えると、なるほどワンオペ育児が大変過ぎるなと想像しやすいですね。

どんなに考えて準備していても、育児って必ず思わぬことが発生するし、思うようにコントロールするのは本当に無理なので、一人でやっていると苦しくなったり、どこかで限界を感じるのも当たり前です。

でね、どうやったら楽にやれるかな〜と考えていたのだけど、そもそも育児を仕事のようにオペレーションしようとすること自体に無理があるな、と感じるので、いっそのこと、オペレーションしない、と決めてしまおうと思い立ったわけです、笑。

ワンオペというハードルをクリアするために、計画、準備、奮闘、要請、最後は懇願や怒り大爆発、、なんてことになる前に、苦笑、ハードルを設けなければ、クリアしなくてもいいわけですもんね。

 

そもそも、子供はそこにいてくれるだけでありがたい存在。

ただ健康で、ご機嫌でいてくれるだけでどれだけ助かるかを、子育てしているとしみじみ感じる瞬間があるのです。

そして「いうことを聞かない子は悪い子」ではないことは本当はよくわかっていて、「いうことを聞かない子がいると親が困る」だけなんです、笑。

大変になるから準備して努力して子供や状況をコントロールしようと必死にオペレーションした結果、子供が不機嫌、そして結局親も不機嫌、ってよくあるパターンだけども、笑、

逆に、親の期待通りに状況を動かそうとしない、言うことを聞かせようとしないと、子供って本当にご機嫌です。

そうすると実は、必要なお願いも素直に聞き入れてくれる率がぐっと上がります。

子育ての概念を段階的に緩めてきて、そんな経験するようになって、だったらもう私の小さなプライドを捨てて、良い親であろうとする戦いからまず私が降りてしまおう。

「育児はちゃんとやらなければいけない」という概念ももういらない。

子供と遊んで暮らそう〜♪とまでは思っていないけど、笑、オペレーションする義務なんてないわ〜♪と思うだけで私はとても楽になります。

そうは言っても育児はかなりの実労働がありますので、ママも疲れてんのよー!と怒りたい時には怒り、子供と一緒に笑いたい時には笑い、疲れたら寝たい時に寝る、、?!、笑。

昨日も夫不在、私は行事疲れでぐったりして寝ていたらお昼の時間をとっくに過ぎていたんです。

遊んでいる子供達に「お腹空いた〜」と言われた時には、休めて疲れが取れていて、良い気分でおにぎりを握ったりして子供たちともぐもぐ食べて幸せでした。

 

まだまだ山あり谷ありの子育てでしょうけれども、百害あって一利なしの「あなたのためにこんなに頑張ってんのにーーー!」という空回りの代わりに、自分の幸せのために頑張りたいなと思う今日この頃です、笑。

 

愛と感謝を込めて。

 

 

 

未分類

生きたい!

 

 

本日のsunset。空はいつも優しいね。

ここのところ、意識の変化がとても目まぐるしく起きている。

力が抜ける、心が緩む、フラットな心持ちへと変化が進む。

ただあるがまま、気づきが浮かんでは過ぎていくのを見ていると、「やらないといけないことなんて何もない。」その思いが深まってくる。

 

 

私たちはみんな思っているでしょ。

成長したい、自分を磨きたい、上達したい、上の立場に立ちたい、社長になりたい、いい親になりたい、子供を立派に育てたい、お金持ちになりたい、美しくなりたい、、とかとかね。

 

で、それを叶えた時に、どんな風に思う?

突き詰めていくと、多分ほとんどの人が「〜〜して、安心したい」だと思う。

 

でも、安心できるまで続ける様々な努力ややらなきゃいけないことは、決して終わらない。

なぜなら、その「自分以外の何かになろうとする」という欲求自体に最終ゴールがないから、ゴールテープを切ったと同時にまた走り出してしまう。

 

社長になったら、収益をあげないと、規模を広げないと、誰もが満足できるサービスを、、と次々に目標や課題は出てくるものだし

いい親になることや、魅力的な人になることにも終わりはないわけで。

大きな石を積み上げて積み上げて、必死で壊れない頑丈な城を作ってそこに住んだとしても、今度はそこを死守する戦いの始まりにすぎなかったり。

 

人生はそれが終わるまですべて過程に過ぎないのだ。

命の始まりは死へのカウントダウン。いつだってすべてはそこに同時に繋がりを持って存在している。

私たちは過程しか生きることができないんだよね。

 

で、いつ安心できるかというと、自分以外になろうとするのやーめたって思った時、笑。

どんな結果になっても自分を認めてあげよう、とすっかり開き直ってしまった時。

 

でもね、努力して今より成長すればそう思えるってわけじゃなくて、

失敗したからこそわかることもあるし、死にかけたからわかることもあるし、大きなものを失ったからわかることもある。

むしろ、そうなって初めてわかることがとても大きいのが人間だと思う。

 

大切なのはいつだって「心」だけ。安心、心が満たされていること。

やらなければいけないことを続けていると、いつか心がすり減って疲れてしまうのが当たり前。

この最終ゴールのないレースからいつ脱落する?怪我して倒れて強制終了になってから?

 

何者にもならなくても、私たちは完璧だ。

だから困難なレースでヘトヘトになる前に走るのをやめたっていい。

それをしていける時代がきているんだと感じる。

もう安心してもいいんだよ〜〜〜♡

そんな声が聞こえる。

 

もうすべて完璧だなと思って心から安心したら、何したい?

 

私は。。思う存分楽しみたいな。この地球を身体中で感じたい。命の隅々まで感動で震えるように生きたい!

そう思って生まれて来たんだなって感じる。

生きたい!ってなんて素敵な気持ちなんだろう。

この数年をかけての生まれ直しみたいな時間がそろそろ終わりそう。

 

今日も愛を込めて。

 

未分類

出会いという宝物

 

 

バンコクで最初に住んだアパートの上の階に日本人のファミリーが住んでいました。

入居早々に凄まじいスコールで1階の我が家が浸水した日、子供たちを二階に避難させるべく、藁をもすがる思いで2階のそのファミリーに声を掛けさせてもらいました。

トイレも使えなくなっていたので、避難させてもらえてすごく助かったのに、水の引かない我が家におにぎりを差し入れに来てくれたりとっても親切にしていただいて、その日から仲良くさせてもらうようになりました。

それからしばらくして、お茶を飲みながらゆっくりお話しする機会があった時に、奥様が「中島家のこと実は前から知っていたんだよ!」と言ってくれたのです。

聞いてみると、日本で取材してもらった記事を読んでくれていて、私たちのこれまでの暮らしやこれからバンコクに来ることを知ってくれていたとか。

それからは、太陽のように眩しく美しい奥様である彼女とは色々なことを語り合ったり、慣れない生活を沢山手助けしてもらったり、優しい気持ちをいつももらって、、「あぁ神様は全部用意してくれているんだなぁ」と感じる出会いでした。

 

あれから紆余曲折。。さらに自宅を引っ越すこと3回目の今のお家でもそんなミラクルが起こったのです。

お隣さんはもうすぐお引越しされてしまうのだけど、ご挨拶に来てくださって突然「もしかして、お子さんにハンディがあられて、亡くなっていらっしゃいます?その経験を通じてお仕事をされていましたよね?旦那様は海外で離れて暮らされて、でもお仕事やめられたんですよね?」と。。笑。

バンコクでのあの日のことが蘇って、一人で笑ってしまった私でした。

その奥様もバンコクの友人と同じく、瞳がキラキラと輝く美しい女性で、すぐに色々と仲良くお話しさせてもらって、とても嬉しい出会いとなりました。

 

実はその他にも、たった1、2回程の取材記事を読んで下さっていた方と出会ったりする機会が何度もあります。

全く有名人でない私にそういう経験が待っていることを考えると不思議ですが、人生にはこういう宝物の箱が沢山用意されているのだなと今は感じます。

偶然なんて一つもなくて、出会える人はきっとすべてが必然で。

最近は、出会えて言葉を交わせたら、もうすぐに友達のような気がしてしまいます、笑。

出会ってくれてありがとう。ここで生きていてくれてありがとう。そんな気持ちであったかくなるのです。

 

生きていると本当に色々なことがあるけれど、、それでも一人の時なんてないのですよね。

いつでも私たちはそれぞれの場所で共に生きている。

出会えた大切な人たちの顔が浮かびます。そしてこれから出会える人たちにも思いを馳せます。

 

ブログで出会ってくれているあなたにも。

心より愛を込めて。

 

 

未分類

祈りの季節に

 

 

我が家に新しいクリマスツリーが仲間入りしました。

これから子どもたちが巣立って行くまで毎年出すことを想像しながら、娘とお気に入りのオーナメントを選びました。

ツリーはインテリアに馴染むことと長く使えるように考えて購入。

 

我が家の初代のツリーは、長男の優大がキラキラ光るものが大好きだったのでファイバーがカラフルに点灯するものでした。

感染症にかかり重症化しやすい優大にとっては、一冬を無事に乗り越えることは本当に大変でした。

だから、彼を授かってから、私にとっての冬は切実な「祈り」の季節でした。

そしてクリスマス、お正月を無事に過ごし、鶯の声を聞く季節を迎えられる時には、それまでの私が知らなかった大きく深い喜びと感謝に包まれたものでした。

 

グリーフワーク(大切な人を悼むこと)は本当に人それぞれの過程を経ると思います。

私の場合は、優大の誕生からの毎日が覚悟の連続だったこともあり、実際に亡くなった後には比較的早く受け入れたのかもしれません。

1年くらいかけて、お腹の底までしっかりと彼との別れを受け止めて、彼の人生への最高の感謝を抱いたと思います。

 

それでも、本当に大切な人との別れは、それを乗り越えて過ぎ去って行くものではなくて、自分の一部として、いつまでも変化し続けながら心にあり続けるものなのでしょう。

優大と過ごした祈りと感謝の季節は、彼が旅立って7回目の冬を迎えた今でも、どこか胸の中に「そばにいたい」という願いを呼び起こします。

だからずっとどこかで彼の姿のない家にツリーを出せずにいました。

今年のツリー、7年振りのツリーは、とても格別な思いで飾りました。

 

新しいこの家にはもう優大の面影なんてどこにもないのだけど、空と海を見ていると心はどこまでも暖かく繋がっていきます。

いつも一緒だと感じます。

今日の空は優しいかたちの柔らかい雲が沢山浮かんでいます。雲の合間から射す光は海を金色に染めています。

 

 

姿は見えないけれど共にいてくれる大切な人。

今触れ合うことができる大切な人。

そばにいてもいなくてもみんな愛で繋がっている。

祈りを超えて、ただただ感謝です。

 

あなたに愛を込めて。

未分類

愛の中にある

 

 

外を見ると、今日も日の光を浴びて海がキラキラと光っています。

お日様の下で光を浴びているすべてのものが愛されているなぁと感じます。

私はそんな光景をみるととても幸せな気持ちになります。

 

ヨレヨレで帰国した昨年の12月からもうすぐ1年が経とうとしています。

この一年は本当に苦しい気持ちを抱えて過ごした日々でした。

幸せの中には苦しみも悩みも内包しているから、落ち込んでいる時にもどこかでは大丈夫と知っています。

それでも、人生から逃げ出したくなる、投げ出したくなる日はあって。

自分がなぜこんなにも繊細に生まれて来たのかを受け止めることができない気持ちになります。

どうして他の人みたいに普通に生きられないのかな。。とつい思っては、普通なんてないのに。。と思い直すのです、笑。

 

私の魂はいつでも経験を求めています。どの魂もそう。

経験に良いも悪いも善も悪もない。光と陰に見えるものも、同じ光の違うカタチであるだけ。

すべての経験は生きている証であるとともに、生きていく私たちの感じる心を耕すためのものかもしれません。

経験を得るほどに、人は一つ一つの出来事の真実、大切な部分をより感じるようになります。

なぜそれが起こったのか、今の自分がどういう状態なのか、自分がこれからどこに向かって歩むのかを知ったりもするのです。

だから、色んなことが起こって、もうダメだと思う日があっても、そんな私たちの心は、生まれた日から1日1日毎に耕されとても豊かになっていることは間違いないのですよね。

 

今年の経験が私にもたらしたものはきっと次の経験でわかることになるのでしょうが、

今の私の中で深まっているのは、やっぱり相変わらず「愛」です。

愛の中にすべてがあることを知るために、そしてお伝えするために、生まれて来たのかなぁと思ったりします。

 

元気な人も、落ち込んでいる人も、迷っている人も、みんな愛の中にあります。

私もあなたも人生は順調です。

泣きたい時は泣いて、文句言いたければ言う、笑いたくなったら笑って、また落ち込んだっていいんです。

鎌倉の山の上から「みんなそのままでいいよ〜〜〜」と声を大にして叫びたい、笑。

心から愛を込めて。