
昨年、タイで何度も倒れてから、余りにその状態が苦しくて、十数年ぶりに予期不安、パニック症が再発し、外に出ることさえもしんどくなってしまい帰国した。
日本に帰ってきても、夫がいないこともあり、調子が悪くても何とか一人で日常を回さなければならず、かなりいっぱいいっぱいだった。。
症状が出始めたのは、優大を妊娠し、無事に産めるかどうかでとても苦しかった時から。
そんなどうにも辛い時、今までの私はいつも自分との戦いだった。
苦しい自分でない、今とは違う自分になりたくて、なりたくて、、
優大の24時間の介護の時期、疲れて辛くなると自分をロボットにして働かせていた。
心のスイッチを切らないと、しんどくてやれなかった。
そしてついにボロボロになって、やっと自分を大切にしなくてはいけない、と気付いて、また再生していった。
今回も、タイに行くことが自分にどれだけ負荷をかけているのかを、気付くのが遅かった。。苦笑。
強烈な身体からのメッセージをもらう時は、そろそろ生き方が変わる時が来た、という知らせだと思うのだ。
今の私は「戦うこと」をやめる時が来たのだなぁと、感じている。
自分の弱さとの戦いを、
本音を曲げて平気を装うための戦いを、
自分とそして他の誰かのことを変えようとする戦いを、、もうやめるとき。
戦うことで得られる平安はない。平安を得ようと戦っても戦いの中に居続けるだけだから。
たとえひと時、安堵したとしても、すぐに戦いには終わりがないことを痛感するのだ。
次の不安という相手が現れて、私たちはいつまでたっても完全には安心することができない。
今はそんなことをひしひしと感じながら、ただ自分の全てに降参してしまうことを練習している。
降参する、戦うことをあきらめる時、私達は一番ありのままの自分に戻るのかもしれない。
そして、一番ピュアな自分に戻って、生きることを楽しんでいる時、実はもう何にも負けることはない。
例えば、お風呂に浸かった瞬間、美味しいとため息のでる瞬間、美しい夕空にはっとする瞬間、私たちは戦いの中にはいないのだから。
愛でできてる私たちが、生まれたての愛に戻るとき、いのちはどんどん輝きを現すだろう。
戦うこと、抗うことをやめるとき、溢れ出ている本来のいのちの輝きはせき止められなくなる。キラキラの子どもたちのように。
大人だってその感性のきらめきを失くしたわけではないのだ。ただいつも何か知らない不安と戦っているから視界が曇ってしまっているだけ。
いつか、平安が、私たち一人一人の心に宿る時、戦いも終わるのだろう。
子どもも大人もすべての人がありのまま輝けたら、なんて素敵な世界だろう。
まずは、今、私は私の戦いを終わらせよう。
いのちよ、ありがとう♡


